怖い話 不思議な医者

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ふと気が付くと、街にはずいぶん沢山の個人病院ができた。内科、小児科、整形外科、脳神経外科、眼科、耳鼻科、アレルギー科・・・と、専門的に別れた開業医が増えたものだと、しみじみ感じる。

そんな個人病院の看板を見ながら、先日、ある医者のことを思い出した。

わたしの子供時代には個人病院はほんのわずかで、地域の人たちは必ず「かかりつけの先生」というのを持っていた。鼻風邪ぐらいでは病院なんかに行かないのが当たり前だったあの頃は、医者の数もそう多くなかったし、医者を出すほど財力のある家庭も少なかったのだろう。

村にも昇格できない「部落」なんて言葉が日常用語として活躍していた子供時代、周囲の村や部落を含めた一帯には総合病院なども無く、現在で言う「開業医」の個人病院が二つ三つあるくらいで、誰もが生まれるから死ぬまで同じかかりつけの先生の世話になる。自家用車の保有台数も少なく、交通の不便な田舎では、患者は中々病院まで足を運べない。そこで医者たちは診療所で診察する以外に、当然のように往診を日常としていたものだ。

わたしの家が家族ぐるみでお世話になっていた病院の先生は、その地域の開業医の中でも特に名医とうわさが高く、大勢の患者さんを抱えていた。村々に三か所ほど診療所を持ち、曜日ごと時間ごとに移動して診療してくれる。それでも診療所に行かれない患者は、村の入り口の集会所などに赤い旗を掲げる。旗には自分の家の名前を書いておく。そうすると診療所に来た先生が名前を確認して、診てほしい患者の家まで直接出向いてくれるのだ。

その先生は本当に腕の良い医者だったのだろう、大抵の病気は問診と聴診器と触診で見抜いてしまう。無駄に血を採ったり、難しい検査機器などにかけたりしない。自分の所ではどうにも対処できない難しい病気の場合は、都会の大きな病院を紹介してくれる。専門は内科だったらしいが、眼病、お産、婦人病、外科処置、耳鼻咽喉・・・と、虫歯の以外のおよそ需要の高い訴えにはほとんど対応してくれる上に、症状も良くなるのだ。

わたしの家の曾おじいさんが危篤状態になった時、先生は真夜中だというのに電話一本でとんできてくれた。永らく診ていた患者の一大事には、真夜中だろうが台風だろうが、きちんと立ち会うというのが先生の信条で、そんな先生の人柄を曾おじいさんは尊敬し、信頼していたものだ。薬なんかもらわなくても、先生に診てもらうだけで元気になる、それが曾おじいさんの口癖だった。

そんな曾おじいさんが突然危篤状態になり、息も絶え絶えに布団に横たわっている時、先生は大きな医者鞄をひとつかかえて真夜中の往診をしてくれた。当時、まだ小さな子供だったわたしはとっくに眠っていたのだが、家の中がにわかに騒がしくなり、それが何やら不吉な騒がしさであることを感じ取って、大人たちが激しく出入りしている曾おじいさんの部屋をそっと覗いた。

部屋には、横になった曾おじいさんの傍らに、家の者が二人ほど正座していて、先生は曾おじいさんの脈をとり、聴診器をあてたりした。しばらくそうやって診察した後、先生は返答も返せない状態の患者に、

「大丈夫だ おじいさん、まだお迎えじゃないよ。また明日来るから」

そう挨拶して席を立った。

大人たちは丁寧にお礼を言うと、深々とお辞儀をしながら先生を見送った。

そんなやり取りをこっそり眺めていた兄弟たちは、大人に叱られないうちに布団へ戻ったのだが、わたしは曾おじいさんの様子がとにかく気になって、大人たちの目を忍んで曾おじいさんの部屋へ戻り、その様態を恐々眺めた。

おじいさんの干からびた皮膚は土気色で、呼吸をする胸の上下も弱々しく、そのクセ、喉に笛でもひっかかっているんじゃないかと思うくらい、息をするたびヒューヒューしていた。子供心に、明日の朝には曾おじいさんは死んでいるんじゃないかと想像するなり、なんだか無性に恐ろしくなって、逃げるように自分の布団に潜り込んだ。病院の先生は「まだお迎えじゃない。大丈夫」なんて気軽に言っていたが、それは間違いじゃないか?・・・・そんなことを考えているうち眠りについたのだろう、目が覚めるとすでに朝になっていて、いつも通り、台所で食事の用意をする音が聞こえた。

朝食の支度をしている母たちは、普段と全く変わらない様子だった。台所には、この家から死人が出た、という慌ただしさや、ザワザワした感じは微塵もなかった。実際、曾おじいさんはその日の夕食には家族と同じ席について、一緒に夕飯を食べることができた。

しばらくの間、先生は毎日往診にきてくれて、診察をしたり、ときには一時間ばかり世間話をして帰ることもあった。先生と世間話をするのが曾おじいさんにとって何より楽しみらしく、話をした日は特に元気だった。

おじいさんの様態がだいぶ安定し始めると、毎日の往診が一日おきになり、次は三日おき、一週間おき、十日おき・・・といった具合に、往診の間隔が長くなってきて、それは曾おじいさんの健康と比例し、三か月もすると畑仕事もできるまでに回復した。

それから一年ばかり過ぎた頃だ。

風邪をひいて熱を出したわたしを診に、先生がしばらくぶりに往診に来た。注射を打って、薬を出してくれた先生は、「ちゃんと寝てるんだぞ」と、わたしの頭をひと撫ですると、ついでに曾おじさんの診察をすると言って部屋を出て行った。

注射が効いたのか、苦い薬が効いたのか、その日の晩にはすっかり熱も下がったわたしは、腹が減って目が覚め、夕飯の支度をしているであろう母親を探しに布団を離れ・・・台所の入り口で思わず足を止めた。

台所には母親と祖母以外に、滅多なことでは顔も出さない親戚のおばさんたちが数人いて、祭りの御馳走を作る時に使う大鍋で沢山の料理を作っている。明日は祭りの日か?それとも正月?・・・ぼんやりした頭でそんなことを考えていると、母親に見つかって布団へ連れ戻された。

その夜、寝床で静かにおかゆを食べていると、先生の声がした。何を言っているのかよく聞こえないが、それはやけに落ち着いて、その落着きとは逆に、家の中は突拍子もなくざわついてきた。廊下をパタパタと小走りしていた親戚のおばさんが、「和尚さんには明日の朝早くに知らせればいい」と、誰かに喋っているのが印象に残った。

朝になって初めて知ったのだが、昨晩、曾おじいさんが亡くなっていた。おばさんたちは葬式の準備のためにやって来たのだった。

大人になってから聞いた話だが、あの病院の先生には尋常では考えられない不思議な部分があって、それは「人の死」を正確に言い当てることだったという。

わたしの診察をした後、何気なく曾おじいさんの診察をした先生は、家族に告げたのだそうだ「葬式の準備をした方がいい」、と。

とても死ぬような様子ではなかったので、その言葉に家族は困惑したが、先生の言うことなら間違いないと親戚の者たちを密かに呼び集めたらしい。

そしてその晩、曾おじいさんは前触れもなく亡くなった。コタツに座ってお茶を飲みながら家族と話をしていたおじいさんは、お茶のおかわりを淹れに家族が台所へ立って戻ってみると、すでに息をしていなかった。まるで電池の切れた人形のように、唐突にあの世へ旅立ってしまったのだ。

あの先生が医者として死を正確に見極められたのか、それとも、計り知れない能力によって嗅ぎ分けたのかは誰にも判断しがたい。ただ、どんなに臨終間際に見える人間でも、先生が「大丈夫だ」と言えば絶対に死ななかったという。逆に、どんなに元気そうに見えても、先生が「色々支度をした方がいい」と家族に告げる場合は、確実に葬式が出たという。

なんでも、あの先生には「風の音」が聞こえたらしい。聴診器を患者にあてると、死の近い人間には風が吹き抜けるような音がすると言い、それはもしかしたら、魂が肉体から離れる時の音かもしれない、と、生前語ったということだ。

嘘か本当か、今では誰にもわからない、不思議な医者の、本当の話。

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