人形
「にんぎょう」・・・・「ひとがた」とも読む
一年の約半分にあたる6月30日と12月30日、大きな神社では紙製の人形(ひとがた)を信者に配り、その身の穢れ(けがれ)を人形に移す「禊祓い(みそぎばらい)」を行う所もある。
人形に移されたそれぞれの「穢れ」は、お祓いの後に焚き上げられ、炎によって浄化される。これにより、穢れと共に引き寄せられる厄災や悪怨を祓い、無病息災や来運招福を祈願するのだ。
人形(ひとがた)とは「人の身代わり」となる物。「人の形」をし、「人のようである」ため、魂が宿りやすいともされている。
これはそんな人形にまつわる、不思議で怖いお話。
ある地方都市に図書館司書を志す女性がいた。彼女は実家から地元の短大に通いながら、いずれは司書として働きたいと勉強し、司書としての資格もとった。
だが図書館司書の空きがない。就職活動の時期が過ぎ、卒業間近になっても働く場所が見つからない。臨時職員として働くこともできず、都内の小さな会社で内定をもらい上京することになった。
一人暮らしすることになった彼女を、両親や祖母はとても心配した。三人姉妹の末っ子で最後まで親元に残った可愛い娘。できることなら司書としての働き口を見つけてやりたいし、それが叶わないなら、せめて地元に就職させてやりたかった。だが現実は厳しい。東京でしばらく働きながら地元で司書の空きが出るのを待つのも一案と思い、両親と祖母は彼女の上京を応援することにした。
一人暮らしのスタートは、セキュリティーの行き届いたワンルームのマンションから始まった。15階建ての白い賃貸マンション。彼女の部屋は13階。周囲は住宅地で高い建物がほとんどなく、見晴らしも良かった。中古物件という話だがリフォームしたばかりとあって内装も綺麗だった。
マンションの一階入り口はオートロックで、不用意に第三者が侵入できないようなっている。エレベーターや廊下には監視カメラが見張りをつとめ、万が一何かあった時には、セキュリティー会社からすぐに警備員がとんできてくれる。ここの住人は、自分の部屋の鍵とマンション入り口の鍵のふたつを持っていないと部屋までたどり着けない上に、それらの鍵はかなり特殊な構造になっていて、安易にスペアキーなど作れないよう工夫されていた。
この賃貸マンションはすべてワンルームで、住んでいる人間は学生や単身赴任の女性などが多く、住人が頻繁に入れ替わる。住人が変わるたびに、ドアの鍵やマンション入り口の鍵を取り換えると費用がかさむので、ここを退去する時に鍵を返納してもらうのはもちろん、スペアキー等を隠し持てないよう管理会社が策を講じたのだ。これだけセキュリティーが行き届いていると賃貸料も値が張ったが、そのほとんどは両親と祖母が負担してくれることになった。
新居での一人暮らしが始まり、新しい職場にやっと馴染み始めた頃、両親が田舎から祖母を連れて上京してきた。この年齢になるまで東京見物もしたことがなかった祖母に、孫娘の元気な顔と立派な新居を見せるついでに、浅草でも連れて行ってやろうということになったのだ。彼女は両親と祖母を連れ、まる一日東京観光を楽しんだ。
新宿で夕食を済ませると、彼女の両親はマンション近くのビジネスホテルに向かい、祖母だけがマンションに来ることになった。ワンルームに大人四人で寝るには狭すぎるし、来客用布団もひと組しかない。彼女は駅の近くで両親と別れ、タクシーを拾ってマンションに向かった。祖母はタクシーの窓から次第に見えてくる白いマンションを見上げて、大したもんだ、と心底びっくりしたような声を上げた。
部屋に入って祖母を座らせ、お茶を入れたり、テレビを見たり、風呂に入ったり・・・そうやっているうちに時計は10時を過ぎていた。初めての東京見物で疲れたろうと、祖母を気遣っていつもより早目に布団に入った。
彼女はすぐに寝付いたのだろう、ふと目が覚めると、枕元の時計は午前三時を刻むところ。祖母はぐっすり眠っているだろうかと横を向いた時、彼女は、真隣に正座している祖母の姿にギクッ、となった。
電気の消えた暗い室内で、祖母の姿は真っ黒い塊のように見えた。寝ている位置から見上げたものだから、背筋の丸くなった祖母の小さな体はやけに大きかった。祖母は、彼女の方を向いて正座したまま目を閉じていた。寝ぼけているのか、それとも起きているのか、まったく判然としてない静かな気配で、ただこちらを向いて正座している。「おばあちゃん?」そう声をかけると、祖母はうっすら目を開けて「大丈夫、気にしないで寝なさい・・・」と、ささやくような答えを返した。
疲れていたせいなのか、次に目が覚めた時、彼女は懐かしいみそ汁のにおいに包まれていた。祖母がキッチンに立って朝食を作ってくれている。急いで身支度をし、ふたりで朝食を囲んだ。朝ごはんを食べながら祖母はテレビを見ていた。彼女もテレビを見るフリをしながら、頭の中では昨夜の祖母の様子が浮かんで離れなかった。祖母に、「昨夜はよく眠れなかった?」そう訊くと、祖母は「よく眠れたよ」 と、いつもと変わらないのんびりした返答を返し、食器を洗うためにキッチンへ向かった。ほどなくして両親が祖母を迎えにやってきた。別れ際、祖母は彼女の目をしっかり見据えると「体に気を付けなさい。事故にも気をつけなさい。戸締りや火の始末も気をつけなさい。知らない人にも気をつけなさいよ」、と幾度も繰り返した。
小学生じゃないんだから・・・彼女の両親はおかしそうに笑ったが、祖母の顔は真剣そのものだった。
祖母から荷物が届いたのは、それから三日後のことだ。荷物をほどいてみると、市松人形が入っていた。顔に小さな傷のある、険しい目つきの古い市松人形。実家の中で彼女を一番怖がらせた人形の「おみっちゃん」だ。この「おみっちゃん」、いつも祖母の部屋の箪笥の上に立っていて、子供時代の彼女はおみっちゃんの目が怖くて祖母の部屋に一人で入れなかった。おみっちゃんは祖母の大切な人形だが、大人になってからも好きになれなかった。
「あたしの父親が唯一買ってくれた人形でね、昔は、こんないい人形を持ってる人は近所にはいなかった」
そう繰り返し自慢する祖母の話を聞きながら、何となくおみっちゃんの視線が気になって箪笥の上を見てしまう・・・そんな関係だったという。
彼女は荷物の箱からおみっちゃんを取り出すこともできず、とりあえず実家に電話した。「おばあちゃんがおみっちゃんを送ってよこしたんだけど・・・」そう言うが早いか、電話に出た母は、「あんたのお守りにどうしても送りたいって言うから。部屋に飾ってやればおばあちゃんも納得するから、飾ってやってね」と、すげなく答えた。 飾りたくない、と言うと、それなら箱に入れたままクローゼットの中にでも入れておいてよ、と母が返した。とにかく、祖母は彼女に人形を送ってやりたくて仕方ないらしく、とても断れそうにもない。
しばらくの間、おみっちゃんが入っているクローゼットが気になって仕方がなかった彼女だが、数日も経つと仕事の忙しさも加わっておみっちゃんとの共同生活も苦にならなくなった。その存在は忘れられ、クローゼットを開ける度に目に入る段ボール箱も、だんだん増える私物に埋もれて見えなくなった。
職場にも仲間ができ、仕事帰りに食事をしたりカラオケに行ったりと、夜遅く帰宅することも多くなった夏頃のことだ。
その日、彼女が帰宅したのは午前四時過ぎだった。次の日は休みだったので仲間と目いっぱい遊び、すっかり朝帰りとなってしまった。空は白々と明るくなり始めていた。
マンションについて一階入り口の鍵を開け、すぐ左のエレベーターのボタンを押した。ふとエレベーターの上についている数字を見ると、「13」の所で止まっている。彼女が住んでいる階だ。エレベーターが中々降りて来ないので、彼女は意地になってボタンを押した。こんな早朝に誰かが乗っているとは思えなかった。幾度かボタンを押しているうち、やっとエレベーターが下がってきた。チン・・と音がして、スッ・・・と扉が開いた。
中には子連れの女の人が乗っていた。茶色い髪の、水商売っぽい風情の若い女性で、赤ちゃんを抱いている。女の人はエレベーターの扉が開いたのに降りる気配がない。「降りますか?」と声をかけたが、無視された。彼女は少しムッとしてエレベーターに乗り、女の人と一緒に13階まで昇って行った。
赤ちゃんを抱いた女の人は、エレベーターの奥に前を向いて立っていた。その視線は腕の中の赤ちゃんに注がれている。彼女は扉のすぐ横に立ち、視界の隅でその親子をチラ見した。赤ちゃんは眠っているのか、ベビー毛布のような物にすっぽり包まれてピクリともしなければ、声一つ上げない。
まるで人形でも抱いているようだ・・・そう考えてしまった一瞬、女の人の目に邪悪な気配が宿った気がした。気のせいかもしれない。だが、女の人を直視する度胸もなかった。沈鬱に淀んだエレベーターの密室から早く逃れたい・・・理由のない焦りに体をこわばらせると、間もなくエレベーターが13階に到着して扉が開いた。
人形の怖い話(2) へ続く
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