廃墟にまつわる怖い話はたくさんある。
廃墟にとどまる多くの浮遊霊が仇をなすとか、その場所で非業の死を遂げた者たちがあの世へ引きずり込もうとするとか・・・。
面白半分に廃墟に出入りして肝試しをする若者や、廃墟を撮影して商売をする者もいる。
時が止まったように、あるいは、現在の時間の流れから取り残されたように、ひっそりと朽ちていく建物。
以前、わたしが住んでいた近所に、廃墟となったホテルがあった。
外壁は腐って剥がれ落ち、窓ガラスのほとんどは割れ、狭い駐車場は草だらけ。夏場になると、肝試しにやってくる若者たちの騒音がうるさく、不審者が出入りしたり、暴走族のたまり場になったりと、夜は物騒な場所だった。
近所に住む者たちは、廃墟となったそのホテルを早く撤去してほしいと長年思っていた。住宅街から少し離れているとはいえ、そんなものが生活近辺にあるのは精神衛生上好ましくないからだ。
だが、そんな廃墟が好きな人間もいる。変わり者と言えば変わり者だが、本人の話を聞くと、なるほど、と感心する部分もあった。
その変わり者、実は、わたしの子供だ。
わたしの子は、物心ついた頃から廃墟となったそのホテルに興味津々だった。散歩に出かけても、わざわざ廃墟ホテルの前を通りたがった。
道路からボロボロのホテルを眺めては、子供は色々なことを発見した。あそこの部屋の奥に時計があるとか、こっちの部屋の窓ガラスは割れていないとか、テラスに生えている雑草が去年より大きくなったとか・・・本当に嬉しそうに、様々な状況を観察しては、最後に廃墟のホテルに向かって、
「バイバイ、お化けのホテル。見せてくれてありがとう。また来るからね」
と、丁寧にお礼を言って帰るのだ。
あまりにそのホテルが好きなので、わたしは一時期とても心配だった。幼子の無邪気な好奇心が、やがて親の目を盗んで廃墟ホテルの中に入り込む結果を招くのではないか、と、不安になったからだ。そうでなくとも、子供と廃墟ホテルとの間に、わたしの目に見えない「絆」のようなものが芽生えているのでは?、という疑惑さえ浮かんでくる。
わたしはそういう建物に入るのがどんなに危険なことか、子供によく言って聞かせた。廃墟とは言っても、あのホテルは誰かの持ち物であること、その人の許可なく勝手に入ってはいけないこと、長い間放置してある建物は色々な場所が壊れていて怪我をするかもしれないこと、それから、不審者や野良犬などが中にいて、勝手に入ってきた人間を捕まえることだってある、と、さんざん脅して聞かせた。
子供は、「わかってる。中には入らないよ」と約束したのだが、どうしても廃墟ホテルを見たい。そこで、廃墟ホテルを見物したくなると、仕方なく、わたしも同伴でホテルの前まで行く羽目になった。
どうしてそんなに廃墟ホテルが好きなのか、子供に尋ねたことがある。子供はこう答えた。
「昔は大勢の人が働いていて、大勢のお客さんが遊びに来ていて、ホテルもピカピカで、ここでジュースを飲んだり、ご飯を食べたりしてたんでしょ?今はボロボロだけど、昔はそうだったんでしょ?ここでどんな人が、どんな楽しことをしてたのか、考えると楽しいんだもん」
子供は、その廃墟ホテルが、「ホテル」としての本来の役目を果たしていた時代を空想しては、もし自分自身がその頃大人だったら、このホテルに泊まってどんなことをしただろうかと同時に連想し、イメージを膨らませ、まるで廃墟ホテル自体と昔話でもするように、過ぎ去った時間を共有していたのだろう。
廃墟ホテルを見物した後、家に帰って子供が真っ先にするのは「絵」を描くことだった。大きな画用紙に向かって鉛筆を握り、真剣な表情で廃墟ホテルの絵を描くのが日課なのだ。毎回新しい絵を描くのではなく、ホテルを見物する度に発見した物や状況を、一枚の絵に黙々と描き足していく。最初は落書きのようだった廃墟ホテルの絵は、子供が小学生高学年になる頃には、かなり詳細な絵になっていた。
ところが、子供が六年生になろうかという時期、廃墟ホテルの取り壊しが始まった。
ある日突然、大きな重機がホテルの前にやってきて、轟音と砂煙と共にホテルを壊していくのを見たとき、子供は何ともいえぬ悲しそうな顔をした。
子供は毎日、ホテルの解体具合を見に行ったのだが、廃墟ホテルがガレキの山だけになった時、ついにあきらめたように、
「バイバイ、お化けのホテル」と言ったきり、二度とホテルの前を訪れることはなかった。
それから数年。
子供は実家を離れて進学し、ずいぶんと大人になった。家に戻ってくることも少なくなり、就職が決まると、本格的に自分の持ち物を整理しようと帰省した。
クローゼットや、物置の奥にしまわれた様々な荷物を整理している時だ。
子供が、「あっ!」と、驚きの声を上げた。
自分が長年描き続けてきた、廃墟ホテルの絵が出てきたのだ。成長とともに忘れられ、押し入れの奥深くに封印されたように眠っていた一枚の絵。わたしも懐かしく思い、その絵を見ようと首を伸ばし・・・そして子供と同じように、
「あっ!!」
と、声を上げてしまった。
懐かしい、廃墟ホテルの絵。
鉛筆で描かれた、つたなくも、愛着深い廃墟ホテルの絵。
その絵の一部には、ひとりの「人間」が描かれていた。
廃墟ホテルを正面から見て描いた絵の、三階の部屋。一番右端、荒れ果てた部屋の窓際に、和服姿の、男の人が立ってこっちを見ている。「男の人のように見える」、のではない。少し髪の長い、粋な感じに和服を着こなした初老の男性が、ぼんやり立って外を眺めている姿。家族の誰が見ても、それはしっかりとした人物像として描かれていた。子供が描いた絵にしては、その男の人だけやけにうまく描かれていたので、「おまえが最近描き足したんだろう」なんて怖さ紛れに言ったのだが、子供はとんと覚えがない様子だった。いつの頃からかこの絵の所在は判らなくなってしまって、今日久しぶりに見つけたのだ、と真剣な顔つきで反論した。
誰かいたずらしたのかな?
子供は不思議そうだった。自分は描いた覚えもない。もちろん、家族の誰も描いていない。
その和服姿の男の人は、とても穏やかな顔つきで、笑っているようにも見えた。子供も、わたしも、ほかの家族も、不可解な人物像を不思議がったが、なぜか嫌な気分ではなかった。
子供は廃墟ホテルの絵を丸めて新居に持ち帰り、今でも大切にしている。
廃墟にまつわる、怖くて不思議な話。
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