ある友人が携帯電話を持たなくなった。それから、引っ越したばかりの都心のマンションを引き払って、高給で待遇も良かった大手の企業を退職し、田舎の民家を買いとって自家製の野菜を作り、日雇いのアルバイトをしながら暮らすようになった。
彼はコンピューター関係の技師で、才能もあり、とても都会的な匂いのする一流のサラリーマンだったので、その変貌ぶりを友だちはみんな不思議がった。彼が畑仕事をしたり、日雇い労働で真っ黒に日焼けする姿など、とても想像できなかったからだ。
友だち数人と、彼の新居である田舎の家に遊びに行った時、わたしたちは彼に、せめて携帯電話ぐらい持ってくれ、と頼んだ。家に電話しても留守が多く、飲み会の誘いや、毎月やっている同級会の連絡をするにも不便だったから。ところが彼は、用事がある時は留守電にメッセージを残しといてくれれば自分から連絡する、と言ってokしない。それどころか、携帯電話なんか使わない方がいい、と、わたしたちにしつこく説教するのだ。田舎に引っ越すまでは、仕事用とプライベート用の携帯電話を二つも持っていた彼が、どうして急にこんな時代錯誤になってしまったのか理解できなかった。
彼はその訳をこう説明した。
通勤の便のいい都会のマンションに引っ越してからというもの、どうも頭がおかしくなったらしい。マンションに帰るとイライラして落ち着かないし、彼女とも喧嘩ばかりする。喧嘩の理由は些細な事で、新しいマンションに引っ越すまでは喧嘩にもならないありふれた言動だったのに、どうでもいい事でお互い頭にきて、罵り合いがはじまり、結局、別れるハメになった、と。
それと携帯電話を持たないことと、どんな関係があるのか、私たちは頭をひねりながら黙って聞いていた。すると彼は、友だちの携帯電話を胸ポケットからぬき取って、おもむろに電源をoFFにしてしまった。それから、その場に居合わせた全員に携帯電話の電源を切るよう強要する。
気の短い友人の一人がもんくを言うと、途端に彼は逆ギレして、物凄い剣幕でわめき散らした。まるで発狂でもしたような様子に、わたしたちは面喰らってその家から逃げるように帰ったのだ。
そんなことがあってから数日後、わたしは彼の元彼女に偶然出会った。彼女は同級生で、二人が学生時代から付き合っているのは友だちみんな知っていた。この間、久しぶりに元彼(例の友人)に会ってきたよ、とわたしが言うと、彼女はちょっと嫌そうな顔をした。
そのことで同級生の何人かから電話があって、どうして彼がああなってしまったのか、どうして二人が別れたのか訊かれたのだそうだ。彼女はこう答えた。
仕事場まで車で10分程度の都会のマンションに引っ越しが決まった時、彼も、彼女も、とても喜んだ。それまでは通勤に2時間以上もかかる場所に住んでいたので、デートする時間も削られるし、体力的に彼も苛ついていて、結婚を考えていた二人はお互いが一緒に共有できる時間をできるだけ長くとりたいと思っていた。新しいマンションではそれが叶う。公園が目の前の、2LDKのマンションは経済的には厳しいものだったが、結婚を考えていた二人は、子どもが生まれた後のことを念頭に置いてそのマンションに決めた。
引っ越しと同時に、二人は同棲をはじめた。最初はいい感じだったのだそうだ。それが3〜4日経つうちに口喧嘩が多くなり、他愛もないことでぶつかるようになった。それまで別々で暮らしていた人間同士が同じ屋根の下で暮らすのだから、価値観の違いに気付くというか、相手の知らない一面を見たような気がして喧嘩になるのよ、と親友に言われたらしい。彼女自身もそう思ったのだが、どうも、それだけではないような感じがする。
そのマンションに住むようになってから頭痛がしたり、お互い訳もなくイライラしたり、朝もすっきり目覚めることができなくなっていた。体はだるく、ゆったり新居での生活を楽しむ気にもなれない。彼は仕事から帰ってると、この部屋に入ると気分が悪くなる、と言って、ひとりで外へ出かけてしまうこともあった。さすがに彼女も頭にきて、そこでまた喧嘩がはじまる。そんなことを繰り返していたある日、彼のケータイに変な電話がかかってきた。彼に言わせれば見覚えのない電話番号で、そんな電話が朝早くから夜中過ぎまで、マンションにいる間中ひっきりなしにかかってくるようになった。気味が悪いのは、相手の電話番号がすべて違うことだ。知らない電話番号だと言って彼はずっと無視していたが、夜中の3時過ぎにかかってきた電話にはさすがに腹を立て、はじめて受話器をとった。
同じ部屋で眠っていた彼女もその電話の音に目が覚めた。電話越しの相手に、彼はすっとんきょうな声をあげ、それから、間違い電話ですよ、と言った。
何の話しだったの?
と訊ねると、どっかのおじさんが死んで、その連絡だったらしい、と答える。すると、すぐにまた携帯電話が鳴った。電話番号は、今の間違い電話の相手だ。
彼はケータイをとると
間違い電話だって言ってるだろう!!
と怒鳴った。やっと二人が眠りにつくと、またケータイが鳴った。今度はサラ金の催促の電話だった。そんなおかしな電話が毎日、毎日続いたのだ。
結局、二人の出した結論はこうだ。現代は、いろんな電波がとびかっている。ケータイ、テレビ、無線、ラジオ、果ては電子レンジまで電磁波をだしている。
それら無数の電波は人間の目には見えなくても、確実にこの大気中をうめ尽くしているのだ。その無数の電波は、地軸か、磁気か、大気の関係か、あるいは建物の構造や立地条件などによって、歪んだり、ある一点に集中したりすることがあるのかもしれない。このマンションのこの部屋は、そういったものが集中してしまう「歪んだ場所」なのかもしれない、と。だから身に覚えのない電話がかかってきたり、精神的にも不安定になるのではないかと。
しかし、そういう結論が出たとしても、もう彼女は彼と結婚する気はなくなっていた。同棲してから見てきた様々な彼の姿に、すっかり幻滅してしまったのだそうだ。
もしかしたら彼本人が言った通り、本当に頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
こんな話、信じられますか?
コメント