近所に、一人暮らしのおばあさんがいる。これは、おばあさんの娘さんから聞いたお話。
ご主人を亡くして以来、20年以上一人暮らしをしているおばあさんは、今年90才を超えた。
90才というと、実子にも孫がいる年代だ。子供たちは比較的近距離に住んでいるが、毎日通うには困難な距離だ。
兄弟が三人いるので、一日おきに交代でおばあさんの様子を見にくる。長年の畑仕事のおかげで足腰が丈夫だから、おばあさんは一人暮らしにも困らない。だが、最近、少しばかり忘れっぽくなった。
子供たちは、おばあさんが火の不始末で火事でも起こさないか、あるいは、悪質な訪問販売に金銭をだまし取られないか、そんなことを気にしていた。
ある時、みんな都合が悪くて、一週間ほどおばあさんの様子を見に行けないことがあった。一週間ぶりに長女が尋ねたとき、おばあさんはコタツに座ってうつむき、何かブツブツ言っていた。
そうか、そうか お前は元気だねぇ。 気を付けるんだよ。またおいで。
下を向いて、そう、誰かに話しかけていたのだ。
長女が青ざめたのは言うまでもない。一週間誰も来なかったせいで、一気にボケてしまったのではないか、そう思ったのだ。
だが、おばあさんの頭はしっかりしていた。訪れた長女を見ると、おばあさんはお茶を入れに台所に立った。急須と湯呑を持って戻ってきたおばあさんは、いたずらっ子のような顔で長女に言ったという。
あたしがボケたと思ったんだろう。ボケたりしていないよ。最近友達ができてね。毎日遊びに来てくれるんだよ。
数日前、おばあさんは一匹の蜘蛛を助けたのだそうだ。台所にいたハエトリグモ。体長一センチにも満たない、巣を張ることもない蜘蛛だ。
蜘蛛が台所のシンクに落っこちて、とても困っていたのだと言う。右往左往する蜘蛛の様子を、おばあさんは面白く観察していたのだが、そのうち気の毒になって、そっと手を差し出した。すると蜘蛛は、逃げることもなくおばあさんの手に飛び移ってきた。そうして、しばらくおばあさんの顔をじっと眺めていたのだと言う。
その様子を見たおばあさんは、蜘蛛が自分に懐いたのだと感じた。こんな小さな蜘蛛でも、助けてくれた人間の事がわかるのだと、感心したのだそうだ。
窓を開けて外に逃がしてやったのだが、どういうワケか、次の日からおばあさんがコタツで休んでいると、人懐こくやってくるようになった。
最初は違う蜘蛛だと思ったが、何気なく話しかけると、まるで言葉が判るようにおばあさんをじっと見つめ、しばらく話をすると、チョコチョコどこかへ去っていく。その様子がとても可愛く、蜘蛛が来るのが楽しみなのだと言った。
娘さんは密かに、やはりボケたのではないかと疑った。蜘蛛を話し相手にするなんて、なんだか哀れにも思えた。そんな心情を悟ったように、おばあさんがこう続けた。
昨日はね、うっかりセールスマンを家にあげてしまって、売り込みを断りきれないでいた所を、あの蜘蛛が助けてくれたんだよ。契約書にサインしろといって書類を広げた所へ、あの蜘蛛がやって来て、書類の上を這いまわったんだ。そのセールスマンは蜘蛛が大嫌いだったみたいで、逃げるように帰って行ったよ。あの蜘蛛は賢いんだ。昔話のようだけど、蜘蛛の恩返しって、本当にあるもんだね。
にわかに信じられない話ですけど、今日もおばあさんの所を尋ねたら、小さな蜘蛛とおばあさんが、楽しそうに話をしていたんです。おばあさんにとっては、蜘蛛でも大切な友達なんですね。
娘さんは苦笑いしながら、そう語った。
蜘蛛とおばあさんの、不思議なお話。
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