足早にエレベーターを降りながら、中の女性が一緒に付いてくるのではないかという恐怖に怯えた。だが、女性はそのまま閉まるエレベーターの扉に消えた。内心ホッとし、自室に戻ってシャワーを浴びて布団に入ったが、なかなか寝付けない。季節は夏。薄いカーテンを透かして、まぶしく暑い日光が顔にあたる。苛々しながら寝返りを打ち続けていると、足元のクローゼットの中で ガタンッ! と物音がし、彼女はびっくりして飛び起きた。
おそるおそるクローゼットを開けると、乱雑に積んであった雑誌が雪崩のように零れ落ちてきた。彼女は雑誌を一冊ずつ拾い集めながら、ふと、一番下の段ボール箱に目をやった。おみっちゃんが入っている箱だ。上に積まれた荷物のせいで、箱は少しひしゃげている。気味の悪い人形とは言え、祖母が大切にしている市松人形だ。おみっちゃんが傷ついていないだろうかと不意に思い立ち、久しぶりに箱を開けてみた。
新聞紙で隙間の埋められた段ボール箱を開けると、おみっちゃんが入っている白い箱があった。フタの下からおみっちゃんが出てきた瞬間、彼女は心臓が止まる思いがした。
おみっちゃんの貌に、青黒いカビが生えそろっていたのだ。
子供の頃からずっと怖かった「おみっちゃん」。だが、それは祖母の大切な人形。おみっちゃんが祖母の物になったいきさつも幾度となく聞かされていた。
物の無い時代に育った祖母は、現金収入の乏しい農家の8人兄弟の末っ子だった。生活に必要な道具も、学校で使う上履きやその他の必要品も、使える物はとことん使うのが当たり前だった時代。末っ子で、親戚の中でも一番年下だった祖母の身の回りにある私物は、みんな誰かが使ったあとの中古品。穴の開いた上履きだって、休日に繕って使ったという。祖母の花嫁道具も、新しい物はひとつもなかった。母親や、その祖母が使ったという鏡台や、裁縫箱、着物を入れる長箱などは隣の家に嫁いで早死にしたお嫁さんの物をもらったのだという。そんな中、唯一新しい持ち物が「おみっちゃん」だった。嫁入りする数日前、父親がなけなしのお金と引き換えに、町で買ってきてくれたのだそうだ。
「女の子が生まれたら、これを飾ってお祝いしてやれる。何一つ、まともな物を持たせてやれない代わりに、この人形をお守り代わりに持って行け」
あいにく、祖母が産んだのはみんな男の子だったから、おみっちゃんは嫁入り以来、ずっと祖母だけを見守ってきたらしい。そんな大切なおみっちゃんに生えたカビ・・・とてもこのままにはしておけない。彼女は急いでおみっちゃんの貌をふいてやった。
カビは案外簡単に駆除できた。だが、カビが生えた跡がうっすら残ってしまった。布についたインク染みのように、茶色く滲んだ跡。何とか綺麗な貌に戻したかったが、どうにもならない。今度帰省したら、祖母に謝らなくてはと思った。それにしても・・・こんなカビが生えてしまうようでは、おみっちゃんをクローゼットの中に戻すワケにはいかない。
他にカビが生えている物がないか中の物を全部出して確認したが、カビに侵されたのは「おみっちゃん」だけだけらしい。彼女は荷物をクローゼットに戻すと、おみっちゃんを窓際の風通しの良い場所に置いた。
こうして部屋に飾ってみると、おみっちゃんとの生活も悪くなかった。幼い頃は怖くてたまらなかった切れ長の黒い瞳も、今になって眺めると、優しげに微笑んでいるように見える。家に帰って「ただいま」のひと言も口にしなかった生活に、「ただいま、おみっちゃん!」と言える楽しみができた。
そうやって一ヶ月程が過ぎた、晩秋の頃だ。
彼女は真夜中に、変な物音で目が覚めた。布団の中で夢うつつでいると、部屋の中に何かがいる気配がする。足音のようでもあるが、人間の息遣いのようにも聞こえる。泥棒でも押し入ったのかと寝たふりをしながら、彼女は恐々布団の隙間から室内を見回した。
真っ暗な室内で、何か小さなものが動いているように見えた。小さな小さな子供のような、「こびと」のような、得体のしれない影が凄いスピードで動いているようだった。その後ろから、大きな影が追いかけるように移動し、ふたつの影はムササビのように部屋中を飛び回っている。
彼女は目をギュッと閉じた。自分が起きていることをあの「影」に察知されたらおしまいだ、彼女の本能のようなものがそう警告している。いや、それより、これは夢に違いない。目が覚めたらきっと朝になっていて、自分は普段通り布団で寝ているのだ。そう言い聞かせながら、彼女は夢から覚める瞬間を願った。だが夢はいっこうに覚めない。長い時間、影の気配は室内を猛スピードで移動し続け、彼女は震えをこらえながら布団にもぐり続けた。
どのくらい経ったろう。カーテンの外がうっすら明るくなり始めてきた。彼女は布団の隙間から、神様にでも出会ったように太陽の光を感じた。夜が明けたのだ。
日の出がカーテンをいっそう明るく照らした、ほんの一瞬のことだ。
彼女の耳に、声が聞こえた。
それは人間が発する声とは違って、直接脳髄に響くような、音とは違う言葉の糸が耳の穴を通ってスルスルと頭に入ってきたような、何とも形容しがたい体験だった。
それはこう言った。
「出ていけ」
それきり、室内を移動する影の気配が消えた。
部屋の中に何の存在も感じられなくなると、彼女は恐る恐る起き上がった。射し込む朝日にうっすら照らされる室内。シンと静まり返り、昨晩から何ごとも変わらず全てがそこにある。影の存在に怯えた時から一睡もしていないが、眠くはなかった。それとも、自分は寝ていたのだろうか?今ここにいる自分はリアルだが、現実味がない。時計を見ると、そろそろ出勤のために身支度しなければならない時間だった。昨夜のことは不可解で気味が悪いが、こうして呆けている自分が夢でない以上、仕事に出かけなくてはならない。
会社が始まっても、頭の中は夕べの出来事でいっぱいだった。気もそぞろで仕事をしている彼女に、一番仲のいい同僚が話しかけてきた。このまま黙っていても滅入るばかりと思い、彼女は同僚に昨晩の奇怪な体験を語って聞かせた。同僚は眉をひそめ、それって心霊現象じゃないの? と言った。この言葉の呪縛は強烈だった。不思議な体験は怖かったものの、心霊とか幽霊とか微塵も思ってなかった彼女は、同僚のさりげない返答にすっかり怯えてしまった。そこで同僚に、今晩泊まってくれるよう頼み込んだ。
部屋に入ってあちこち見回しながら、同僚が真っ先に言ったのは「気持ちの悪い人形!」のひと言だった。当然おみっちゃんのことだ。同僚はおみっちゃんと距離を置いて立ち、さも不快な顔つきをした。確かに、この部屋で起こった不可思議な体験を聞いたあとにおみっちゃんを見たら、誰だってそう思うだろう。だが、おみっちゃんは祖母の大切な人形だし、今は自分にとっても大事な同居人。そのことを説明すると、同僚は ふーん、 という顔つきで床に腰を下ろした。
ふたりでコンビニ弁当を食べ、テレビを見ながら職場の愚痴をもらし、順番に風呂に入っているうちに就寝時間となった。布団にもぐって電気を消すと、「やっぱりあの人形怖いね」と、同僚が言った。窓際の本棚の上に立っているおみっちゃんの白い貌が、カーテン越しの月明かりに生き生きと浮かび上がっていた。だが、特に何ごとも起らなかった。静かな夜が明け、彼女は同僚とふたりで出社した。結局、夜中に飛び回っていた影のようなものは、彼女が寝ぼけ半分に見た夢だったのだろうという結論になり、実際、数日たっても異常なことは起こらなかった。
何も起こらなければ、人は忘れてしまう。毎日時間通りにおしよせる仕事の波と、友達との付き合い、休日はくたびれた体を休めながら部屋を掃除し、一週間分の洗濯物を始末する。そんな日常が当たり前のように流れていく間に、あの晩の不思議な体験はすっかり記憶から消えていた。そんなある日、彼女の記憶をまざまざと呼び覚ます出来事があった。
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