年寄りのように古びてしまったおみっちゃんに気付いたのは、不審な人影を見た日からひと月ばかり後のことだった。勤務中に実家から電話がかかってきて、祖母が突然亡くなったという訃報を聞いた。彼女はそのまま退社して帰省することにり、簡単な荷造りをしている最中に、ふと、頭上にたたずむおみっちゃんを見た。まるで、幾年もそこに放置されたままの人形のように、おみっちゃんは薄汚れていた。祖母が送ってくれた人形。祖母が長年大切にしてきたおみっちゃん。こんな姿になってしまって申し訳ないと思う前に、おみっちゃんを実家に持っていくべきかどうか考えた。
さんざん迷った挙句、彼女はおみっちゃんを持って帰るのを諦めた。本来の持ち主である祖母が亡くなった今、持ち主の所へ帰してやるのが良いのだろうが、この薄汚れたままの姿で持ち帰るのは気が咎めた。今はおみっちゃんを綺麗にしてやる時間はない。彼女は荷物をまとめると、おみっちゃんを部屋に残したまま実家へ急いだ。
実家に寝かされた祖母の周りには、親戚の面々が揃っていた。突然の知らせに驚いたものの、苦しむこともなく、まるで眠るように息を引き取ったといういきさつを聞いてみんな安堵していた。祖母の死に顔はその通り、本当に穏やかで綺麗だった。通夜や葬式が終わり、集まっていた親戚たちが実家からいなくなると、彼女は母親に言った。「おばあちゃんが死んだから、おみっちゃんを持ってこようと思ったんだけど・・・」と、そこまで言いかけると、母が早口に答えた。人形はマンションに置いておきなさい。あの人形は、孫が帰れる日までお守りとして持たせるんだって、おばあちゃん言ってたから。こっちで就職が決まって、帰ってくるときに持ってくればいいから、と。
彼女は返答できなかった。孫の身を案じて、祖母が送ってくれたおみっちゃん。人形が孫を守るなんてまさか祖母も本気で信じていなかったろうが、それが祖母にできる精一杯の愛情だったのだろう。その人形を汚してしまったことへの自責と、おみっちゃんに対する得体のしれない怖さ、このふたつに翻弄されたまま、彼女はマンションへ帰った。
釈然としないまま、部屋に戻って荷物を置き、カーテンを開けながら何気なくおみっちゃんを見た彼女は、思わず悲鳴を上げた。おみっちゃんの貌が、まだらに変色していたのだ。よく見ると、消えなかったカビの跡が更に濃くなっていた。市松人形独特の生きているようなまなざしが、変色した貌の中でうつろに光っていた。帰省していた4日の間に、こんなにも変わるものだろうか? そう考えると、なおさら怖くなった。
その日からおみっちゃんには布が被せられた。クローゼットに戻してカビが生えるのも困るが、その貌で見つめられるのも恐ろしかったからだ。おみっちゃんのシミは日に日に濃くなり、まるで火傷の跡のようになった。酷い火傷で顔面がただれてしまった人のようで、布の隙間から覗き見るだけでもゾッとした。これは祖母の仕業だろうか、なんて恨めしく思ったこともあったが、可愛い孫にそんなことをするハズがないと自分に言い聞かせた。とにかく、度重なった異様な出来事に、突然の祖母の死、日ごとに醜くなっていくおみっちゃんという怪奇に絡めとられ、彼女の生活は次第に暗くなっていった。
気持ちが沈んでいるせいか、職場での人間関係がうまくいかなくなった。仕事のミスが増え、上司や先輩からも目につけられた。何ごとにも興味が持てず、何ごとにも感動しないまま、職場と自宅を往復するだけの日が多くなった。そんな自分に嫌気がさし、ふと、手にした包丁やベルトで「自殺しでもしようか」と考えてしまう心の隙魔に気付くとき、逃げようもない恐怖にとりつかれてしまったのではないかと、心底おののいた。その頃から、彼女は同じ夢を見るようになった。
夢の中で、彼女は暗い静かな場所に立っている。頭上を覆う影はさらに薄暗く、様々な形になってザワザワと揺れ動いた。どうやらそこは木立の中なのだが、実際の森や山とは違って、どんなものにもハッキリとした輪郭がない。そのモヤモヤとした薄暗い木立の奥から、おみっちゃんが追いかけてくる。おみっちゃんの貌はまるで生きている人間のように生気があり、彼女は恐ろしさのあまり逃げ出すのだが、おみっちゃんは驚くほど速く、すぐ後ろまで迫ってくる。もう少しでおみっちゃんに捕まりそうになった瞬間、布団の中で目が覚めるのだ。
こんな夢が毎夜続くと、うかつに眠ることもできなくなった。夢を見るのはマンションにいるのが原因ではないかと、ビジネスホテルに泊まったこともある。だが結果は同じだった。彼女の夢は「単なる夢」ではなく、平穏だったそれまでの暮らしを確実に脅かした。睡眠不足が原因で体調を崩し、仕事もままならない。医者には首を傾げられるし、どんな薬を飲んでも効果はなく、リラックスとか、熟睡とか、そういった言葉が遠い国の出来事のように思われた。
「体調が悪いのは仕方がないが、仕事ができないなら辞めてもらうかもしれない」、上司にそう勧告された日、精神的に憔悴しきって帰宅した彼女は、13階に住むあの親切な女性と行き会った。エレベーターを待っていた彼女に、女性は心配そうに声をかけてくれ、大丈夫ですか?と言った。傍目に見ても彼女の顔色は悪かったのだろう。女性の言葉がやけに優しく感じられたのは、ここしばらく、誰かが自分の身を案じてくれる、なんてことに縁遠かったからかもしれない。彼女は、女性の言葉が心底嬉しかった。一緒にエレベーターに乗りながら、最近どう? と訊かれたので、彼女はおみっちゃんのことを話した。親切にしてもらったものの、よく知りもしない赤の他人にこんなことを話すべきではないと正常な時なら思っただろう。だが、彼女は誰かに助けて欲しかった。必死になって両手を伸ばし、助けを乞うている彼女の切迫した気配を、女性は感じたのかもしれない。その「おみっちゃん」という人形を見せてほしい、と言った。
女性を部屋に招き、彼女はおみっちゃんを見せた。久しぶりに布をとったおみっちゃんの貌は、以前にも増してシミが濃くなり、その大火傷のような有様は、思わず目を逸らせたくなるほどだった。女性も同じように半ば目を逸らし、気味悪そうに眉を寄せた。それから、「今のあなたにこんなことを言ったら、気味悪がると思うんだけど・・・」そう前置きし、女性は切り出した。
以前、ここにマンションが建つ前の雑木林で無理心中したという女は、赤ん坊を抱えた若い母親だったらしい。水商売をしていて妊娠し、結婚するつもりで出産したが、相手の男にひどく裏切られたという。思いつめた母親は、自宅で赤ん坊の顔にアイロンを押し付け、焼き殺してしまった。母親は死んだ赤ん坊をおんぶしたまま、ここで首を吊った、というのだ。昔からこの近所に住む人に聞いた話だと女性は言った。自分は幽霊や心霊なんてものは信じていないが、この人形を見た瞬間、その話が思い出されて仕方がない。人形には魂みたいなものが宿りやすいというから、できたら、この人形は処分した方がいいのでは? と意見した。
そんな話を聞いてしまったら、おみっちゃんを部屋に置いておくワケにはいかなかった。事情が事情なだけに、おみっちゃんを処分したとしても、祖母もあの世で納得してくれるに違いない、そう自分に言い聞かせた。女性は親切に、この近くに「人形堂」と呼ばれるお堂のようなものがあると教えてくれた。近隣から必要なくなった人形が持ち寄られ、供養をかねてお堂に供えられる。供えられた人形は半年に一度、焼かれて処分されるらしかった。女性に人形堂の場所を教えてもらうと、彼女はさっそくおみっちゃんを抱えてお堂に向かった。人形堂は閑静な住宅地の一角にポツンと建っていて、暗くてもすぐにそれだと判った。お堂の街灯に照らされ、おびただしい人形が肩寄せ合って供えられているのが見えた。彼女はおみっちゃんをその片隅に供えると、必死になって手を合わせた。どうか成仏してほしい、自分に祟らないでほしい、そう、心底願った。
その晩から、あの不気味な夢にうなされることはなくなった。やはり今までの怪奇は、おみっちゃんに憑りついた何者かの仕業だったのかもしれない。信じられないが、そう思うより他なかった。ところが、平穏な時間は長く続かなかった。
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