気が付いた時、家の中はガランとしていて、家族は誰もいなかった。
自分は居間のコタツに座り込んでいて、目の前には見慣れた湯呑茶碗が置いてあり、飲みかけのお茶が入っていた。居眠りでもしていたらしい。
何となく湯呑に手を添えると、お茶はまだ生温かかった。この様子だと、淹れてからそれほど経っていない。お茶を淹れるのはいつも妻だ。自分は結婚してこのかたお茶など淹れたこともない。
電気もテレビもついていない自宅は何とも静かだった。馬鹿げた話だが、その静けさがやけに心細く感じられた。まるでこの世に生きているのは自分一人のような気になってきた。迷子のように妻の姿を目で探したが、妻の姿は見当たらなかった。そこでコタツから立ち上がって、家の中を探して歩いた。
外はどうやら良い天気だ。なのに家の中はどこも薄暗く感じられた。電気をつける必要などないとわかっていても、薄暗さが呼び起こす孤独感から逃げ出したくて、家中の電気をつけながら妻を探して歩いた。
台所を覘いて、座敷を探して、二階に上がって、風呂場やトイレも探してみた。どこにも妻はいなかった。洗濯物でも干しているのかと思い立ち、物干し台に出てみた。
その時だ。
ブゥーン・・・と低い羽音がして、首筋に強烈な痛みが走った。咄嗟に手を当てると今度は手の甲に痛みが走った。ブゥーンという低い羽音と共に視界に入ったのは、大きなスズメバチだった。
そのあと、自分がどうなったか全く記憶がない。次に意識がはっきりした時、目に入ってきたのは白い天井と 白いカーテンだった。
やけに白いな・・・ぼんやりそんなことを考えていると、見慣れない看護婦がやって来た。
・・・ここは病院ですか?
看護婦に尋ねると
そうですよ。
看護婦がビックリしたように答えた。
スズメバチに刺されて運ばれたんですか?
そう重ねて質問すると、看護婦は不思議な顔つきで「ちょっとお待ちくださいね」と言い残し、部屋を出て行った。
自分の腕に流れ込んでいる点滴液の落ちるのを眺めながら、スズメバチの低い羽音を思い返す。
スズメバチに刺されるのはこれで何度目だろう? 若いころから山仕事をしていたので、スズメバチには幾度も刺された。
民家の軒先にできる巣はまだいい方で、スズメバチの本当に怖いところは「人間の見えない空間に巣を作ること」だ。思いがけない岩の隙間、木のウロ、雑草に覆われた山肌のくぼみなど、山仕事をしている人間がうっかり踏み込んでしまうような場所に奴らは巣を作る。巣に近づいてもよい許容範囲を超えた瞬間、スズメバチは容赦なく襲ってくる。一度に何箇所も刺されることは当たり前で、その痛みは言葉にならない。
刺されるたびに病院に行ったが、昔の町医者は大した手当もしなかった。最近は「アナフィラキシーショック」とかいう難しい病気が騒がれていて、幾度もスズメバチに刺されると死ぬ、なんて家族にも若い医者にも脅かされた。
そうは言っても、ハチはどこに潜んでいるかわからないし、そんなことを怖がっていたら山には入れない。仲間の中には何十回も刺されている奴らがいるが、みんな元気だ。ハチに刺されたぐらいで点滴なんて、大袈裟な世の中になったものだ。
うつろに目を開けたままそんなことを考えていると、病室のドアが開いて誰かが入ってきた。立っていたのはずいぶん昔に嫁いだ娘だった。娘はやけに老け込んで見えた。
誰が病院なんかに運んだんだ。スズメバチに刺されたぐらいで大袈裟だぞ
そう言うと
・・・お父さん、私が誰だかわかるの?
娘が言葉を返した。
馬鹿にするな、まだボケちゃいない。自分の娘の顔を忘れるか!
そう答えると、娘は感極まった顔つきになり、それまで廊下で待っていたらしい妻を病室に呼び入れた。 いつの間にか髪が真っ白になった妻は、枕元の椅子に座って静かに言った。
おとうさん、私がわかる?
なんだその白髪頭は。頭が真っ白になったって、自分の女房の顔ぐらいわかる!
本当に?
なんだ!女どもが二人してくどいぞ!
少し邪険に答えると、妻は顔を覆ってそのまま泣き崩れた。同時に、さっきの看護婦と若い医者が入ってきた。少しばつが悪いと思ったが、医者も看護婦も妻が泣いていることは問題にせず、冷静にこんな質問をしてきた。
ご自分が誰か、わかりますか?
医者も、看護婦も、妻も、娘も、ひどく真剣な顔つきで自分を見ていた。
・・・・・・・・さて、これはスズメバチに刺された友人の体験談だ。この話の何が怖いかわかるだろうか?
スズメバチが怖い?・・・たしかに怖い。近年騒がれているアナフィラキシーショックで死ぬかもしれないと考えると、確かに怖い。だが、この話はもっと不思議で怖いものだ。
スズメバチに刺されたこの友人、実は11年ぶりに正気に返ったのだ。これまで書き綴ってきたのは、彼が正気に戻る直前の記憶。
長年山仕事を生業にしてきた彼は、若いころから幾度もスズメバチに刺された。ハチに刺されれば猛烈に痛いものの、彼の場合患部が腫れあがって痛いくらいで、深刻な症状は他になかった。
通常、一週間もすれば痛みも腫れもひき、また仕事に復帰できたので「アナフィラキシーショック」なんて言葉が世間で騒がれるようになってきても、彼はハチに対して警戒心も薄かった。
その彼が、11年ほど前、自宅の物干し台でスズメバチに刺されたのだ。 刺された後、彼はそのまま意識を失ったのだろう。留守にしていた奥さんが帰宅し、物干し台で倒れている彼を発見した。
家族は最初、脳梗塞やくも膜下出血で意識を失ったのだと思っていた。搬送先の病院でも同じ診断を下し、MRIをはじめ様々な検査をしたが原因がはっきりしなかった。結局、彼の体にハチに刺された跡があったため、アナフィラキシーショックではないかと言われた。
その後、一週間ほどで彼の意識は戻った。
だが、彼の正気は失われていた。
目を開けているだけ、息をしているだけで、彼は目の前にいる人間の区別もつかなくなっていた。
会話ができないのは勿論、食べることや排せつなど、生きる為に最低限必要な活動さえ、手取り足取りの介助が必要だった。
友人の一大事を耳にして見舞いに訪れた私たち同級生は、あまりの事態に呆然とした。絶望する奥さんには言葉のかけようもなかった。
数年間、奥さんと娘さんは自宅で介護を続けていた。だが、奥さんが体調を崩したために施設に入所することになり、こうして彼に会うのは本当に久しぶりだった。
久しぶりに顔をそろえた私たち同級生等を前に、彼はこれまでの出来事を語ってくれた。
正気が失われていた間の事を、自分は何一つ覚えていない。家族にもみんなにも随分迷惑をかけてすまなかった。ハチのせいで頭がおかしくなって、気が付いたら10年以上経っているなんてことがあるんだから、世の中何が起こるかわからない。
俺の正気が戻った理由?
それが、実は「スズメバチ」なんだ。
スズメバチに刺されたショックで元に戻ったんじゃないかと医者は言ってた。
入所していた施設でスズメバチに刺されて、病院に運ばれた。気が付いたらベットの上だった。俺は確か、自宅の物干し台でハチに刺されたはずなんだが、目が覚めたら全然知らない看護婦がいるし、娘は老け込んでいるし、女房は白髪頭になっているしで、何が何だかわからなかったよ。
知らない間に11年も経っていて、周りがみんな歳くっているなんて考えられないだろう?世界中が俺のことを騙しているのかと思ったぐらいだ。
だが、今はこっちが現実だと信じるよ。正気じゃなかった間、俺は本当に寂しかった気がする。この世の中に誰もいない、一人ぼっちのあの寂しさはもう二度と味わいたくないからな。
・・・スズメバチに刺されて11年という月日を失った友人の、リアルな怖い話。
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